複数人で同じゴールに向かって前進するのは、基本的に不可能である。
少なくとも動物には(本能として刻まれた習性以外は)できない。
唯一、人間に可能なのは、強烈な信念の共有である。最もよく知られたものは宗教であろう。
似た話題は既に取り上げた。 →高レイヤーの概念があれほど幅を利かせている
問題は、そのような信念を恒常的に生成・共有できるかというと、そうではないということである。会議もそうであろう。時間も場所も話題も拘束されるなど狂気の沙汰でしかない。表面上は上手くいっているように見えているが、単に我慢しているだけだ。あるいは会社命令や給料や同調圧力といった宗教のおかげと言っても良いだろうが、その効力には個人差がある。基本的に会議は辛い。この辛さを無くせる信念などそうつくれはしない。唯一、「一緒に過ごすのが楽しい」という類の確立が挙げられるくらいだろう。
ここで、「単に一緒に過ごすだけならそうでもないよね」と思われるかもしれないが、違う。一緒に過ごすだけでも、自覚がないだけでゴールは存在している。それを知り、それに向かって歩まねばならないからこそ、誰かと一緒に過ごすことは疲れる。あるいはゴールがわからない場合は、どこに進めばいいかわからないから、やはり疲れる。何なら荒れる。
幸いにも、この辛さを軽減できる目安が一つある。「脱線できること」だ。
脱線できるということは、拘束が緩いということである。日本の管理職がなぜあれほどの会議地獄に耐えられているかと言えば、脱線できるからだ。内職という形で脱線できている。野球選手があれほどの長時間の試合に耐えられるのも、攻守交代があり攻撃の最中に手持ち無沙汰になれる(脱線できる)からだ。通勤電車が辛く、ドライブがあまり辛くないのも、脱線の余地による。
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